認識と現実(前編)

 精神病理について、哲学からのアプローチを試みたい。精神疾患は認識と深い関係があるからだ。臨床心理の療法の一つに認知療法というものがある。その手法には哲学の認識論という分野から取り入れた要素が多分に含まれている。認知療法を切り口に進める(※ここで述べる認識と認知の意味に相違はないものとする。認知は生物学的な情報処理の過程を指すようだ)。

 ざっくりと認知療法を説明する。認知療法では、まず認識があって、その認識が現実を構成しているという前提がある。その際、現実を構成する認識そのものに妥当性があるか、認識に色付けを加えていないか検証する作業から始まる。

 たとえば職場の誰か数人が会話をしていて自分の名前が出てきたとする。その内容はよく聞き取れなかったが、その時に笑いが起こった。何が話されていたか気になり、もしかしたら悪口を言われていたかもしれない、そう思ったことはないだろうか。
 このようなことは誰もが体験したことがあるだろう。この時、悪口を言われていたかもしれないという認識はそのまま本人にとっては現実だ。悪口が実際にあったかどうかはこの時点では不明だが、少なくとも気がかりな事柄として本人の現実となっている。そして、ここでは恣意的な決定、悪口を言われていたかもしれないという決定が加わっている。

 人は往々にして認識に癖をもっている。出来事がおきた時に自動的に働く、ある出来事にある内容を結びつける認識の癖のことだ。認知療法ではこれを自動思考と呼び、反復形成によって強化された認識の回路を、鋳型(スキーマ)と呼ぶ。

 今回の例では【自分の名前が出た会話】→【笑い】→【嘲笑されている】といった回路を指す。無論、人によってはまったく違う回路がありうる。【自分の名前が出た会話】→【笑い】→【人気者だから褒められている】といった具合だ。

 認知療法は、ある認識の癖を持つことで神経症的症状(脅迫的な不安感など)が頻出してしまう事態の改善を目的としている。今回の例でいえば【嘲笑されている】という認識によって強い不安感に悩まされる場合に、その認識(=自動思考)に妥当性があるのか検証し、症状の発現が軽微になるような捉え方を模索する。この模索を繰り返すことで、負の感情を誘引する自動思考・認識の鋳型の別回路を生成することも同時に目指す。

 ざっくりと認知療法について説明した。認識のメカニズムの一端を垣間見るという点では有用だ。コップに半分入った水を「半分しかない」から「半分もある」と認識を変えることは、気分を肯定的なものとすることはありえる。が、仮に症状を軽減することができたとしても、対症療法であることに変わりはないし、個別の事象への対症に終わりはないだろう。何より、当人にとって紛れもない現実をそうでないとすることに、無理を感じるのも否めない。精神疾患の本当の問題、そしてその解決はまったく別次元のところにある。

 認知療法に対して懐疑的、否定的な意見を述べた。だが根本的な認識の変容が起きた暁には、世界は大きくその様相を変える。さてここからが本題となるのだが、続きは次の記事にて述べたい。