認識と現実(後編)

 

前の記事で「精神疾患の本当の問題はまったく別次元のところにある」と述べた。本当の問題は、認識の相対性に留まってしまうことだ。なぜそうなるかと言えば、自我への執着、これに尽きる。自我を手放すことこそ精神病の根治となる。どういうことか。

「認識の主体は誰か。自我から自己(普遍的精神)へ 」

 1.「自分とは何か」

 この問いに恐らく大多数の人は、名前や肉体、国籍などの属性を提示することで答えようとするだろう。が、それらは自分を示すものではない。肉体ひとつをとっても食べ物や排泄物、それらが自分となる、或いは自分ではなくなる、とするのはどの時点か。呼吸も同様。身体外部との境界はどこにあるのか、そもそも境界を設けることは可能なのか。声は、どこに響いているのか。言葉はなぜ心を揺さぶるのか。意志はどこで満たされるのか。身体の細胞は数年間ですべて入れ換わるというが、この意味でその肉体(臓器や細胞それら全体)は既に同一ではない。名前もそうだ。法的手続きをとれば変更可能なそれを自分といえるのか。国籍も同じく自分の属性に過ぎない。

 自分を属性によって示すことはできない。しかし、だ。このように考える自分、あらゆる属性を取り払ってもなお残るものが確かにある。デカルトはそれを「我思う。ゆえに我在り」と示した。姉御はこう修正した。「これ思う。ゆえにこれ在り」
「我」では狭い、加えて自我的な要素がまだ臭ってしまう、そう感じたのだろう。

 荘子の「胡蝶の夢」という説話がある。夢のなかで蝶になって飛んでいるのは自分だった、目覚めれば荘子という自分であった、どちらも自分であった。では荘子でもあれば蝶でもある自分とは何か。胡蝶の夢でなくても、身体が入れ替わる物語がある。入れ替わった者はそれぞれ異なる肉体にあって元の自分を精神として維持している。自分というものが誰になっても、それが自分とわかっている自分、これは最早誰ともいえない自分であろう。つまり属性云々で語られる以前のその根源的な主体ー。

 これが普遍的精神としての自己、『私』という普遍的形式である。
(姉御にならえば、誰ともいえないのであれば人称性も不要ということで『これ』となる。)

 本記事における「自我」と「自己」の定義を簡潔に述べておく。
「自我」とは通常の意味での自我、個人を指す。これに対して「自己」とは、普遍的形式としての『私』、自我を超えた視座に立つ個人を指す。誰ともいえない自分という点で個人としての意味からは自由であり、個人でありつつ個人ではない、メタの立場からおのれに接することが出来る。つまり「自己」において本来の相対化がはじめて可能となる。自身ですら、相対化されるのだ。

 自我と自己、この構造に気付くことによって認識主体を普遍的精神としての自己-根源的な主体-へと明け渡す道が開かれる。これが先の記事で書いた「一度死ぬ」こと、自分を手放して自分に出会うことである。自分に出会うとは、本来の状態を見出すこと、取り戻すこと、もしくは余剰を取り除くことであり、他の何かになることではない。

 2.自我

 自我の舞台は、やはり「自我」になるだろうか。「自己」と対比して狭い意味での自分、と考えてもらえればよい。端的な表現がみつからない。
 彼の関心事は人生におけるあれやこれやの出来事、それらが自分にとってなにであるか、に向けられる。このことは誰にとってもそうであるし是非もないのだが、本記事で注目したいことはその価値判断、価値基準がどのように構築されるのか、という点にある。

 以下、精神科医である石田春夫氏の文章を紹介する(一部改変)。

 「自分が何者であるかを示すため「自我」は先ず、ある特定の社会において価値として認められているものを価値基準として取り込む。そしてこの取り込みは、その社会に属している他人からの承認を必然的かつ無自覚的に目的化する。その価値基準に違和感を覚えた時にはそれを再構築するが、基本的な構造に違いはない。このように造作された「自我」は否定を恐れる。そもそもが承認をその根拠としているからだ」

 まず社会的な価値基準を取り込む。そのうえで新たに自分の基準を付け加え、都度修正していく。石田氏の洞察のとおりに形成されることを前提として話を進めたい。
 さて、流通している社会的価値基準はそもそもが相対的だ。文化が異なれば価値基準も異なることは誰もが承知している。そこで社会的価値基準に疑問を抱いた者は、自分自身の色を加えて変形、修正を施す。カスタマイズする際の基準は「自分にとってどうであるか」、当たり前ではあるがそうした類となる。とはいえその価値序列の相対性が消えるわけではない。ここに問題が発生する。

 というのも、価値序列の構築はその根拠をみずから裏付けなければならず、裏返しとして、その正当化を背負うことになるからだ。例えば「この作品が素晴らしい」と公言することは、自らの価値序列を表明することであり、それを否定されることはそのまま本人への否定に直結する。
 個人が単独で背負う価値序列は脆弱であるほかなく、否定に対して脅迫的な正当化に迫られる。つまり、不安を孕むことは避けられない。対立する価値序列に直面するとそれらを排撃しようとするか、あるいは一定の距離を取って関係を遠ざけようとする。自分の安穏を脅かすものは排除すべきものとなるのだ。

 自己防衛として別のベクトルもあり、孤立に怯えることがないように価値の共有を求めることもある。あるいは共有されている価値として認めた(例えば金銭的成功)その価値の強者になろうとする。これが承認欲求と呼ばれるものの正体で、その本質は依存あるいは支配欲だろう。同じことの裏表の言い方に過ぎない。近年、急激に加速している価値の細分化は、近似する価値をもつ者たちで集まり、そこに身を置くことで安心を見出そうとするもので、排他性が強まると境界線を設けて外と内とに分断する。この動きに伴う口癖が「わたしとあなたの考えは違う」「楽しみは人それぞれ」「あなたに迷惑をかけただろうか」といったものだ。しかし内としたそこにおいても、心のどこかでは承認の不確かさに怯えている。

 余談だが、最近よく耳にする「それぞれの正義」も同じだ。正義が対立すること自体が既に語義矛盾なのだが、そのことは置いておくにしても、それぞれの正義の行き着くところ、戦争と分断である。

 脅迫観念とは、脅迫的に正当化を迫られている状態、自身の正当性の揺らぎに対する無意識的な自己防衛の緊張状態であり、ある閾値を越えると神経症的症状として現れる。不安に直面する自分の内面がフォーカスされ、ちょっとした動揺も大きな揺らぎとなる。いわば、自我がひるがえって剥き出しの身となって世界を覆う。ここまでくると、少し触れられるだけでも不安や恐怖が噴出する。言ってしまえば肥大した自意識、単なるナルシシズムなのだが、ともかくも、自我に囚われる自縄自縛の構造がここにある。

 自我における価値序列の構築、その本質は、承認の闘争に身を置くことだと言ってよい。ちなみにニーチェが発狂したのも、価値の絶対化への意志、強者たらんとした必然の結果だ。晩年の彼の顔にはゾッとするものがある。

3. 自己

 では自己はどうだろうか。自己の舞台は個人を超えた、広大な地平だ。自己は自身を含むあらゆる自我を相対化している。自ら価値序列を構築をするのではなく、誰にとってもそうであるところの普遍的な価値序列、既にあるそれに身を委ねる。
 自我のそれとの違いを簡潔に表現すると、自我において「自分にとってどうであるか」であったものが、自己においては単にあるいは純粋に「どうであるか」となる。自我の色付け、余剰を取り除いてありのままをみる。それだけのことだ。


 自我が正当化に囚われるのに対し、自己は正当化から無縁である。自ら構築した価値序列ではないので、それに対する評価を気にかける必要がない。自己の正当性、その根拠を問われても困るのだが、実は既に根拠なのだ。
 例えば「正義」は、それが正義であるかぎりで正義なのだが、その確信を求める、誰にとっても正義であるものを正義として認めるその姿勢こそが、普遍に身を委ねることだからだ。


 失敗について考えてみよう。なにかしらの判断材料がなければ、つまり成功の基準を設定していなければただ結果があるだけだ。なぜ失敗とみなしているのか、その判断基準はどうしてそうなのか。確かに失敗はある。しかし、ありのままに認識しているだろうか。期待なり成功基準なり自分が付け加えた諸々が覆い被さることで、行為本来の価値を不明瞭にしてはいまいか。
 とどのつまり、失敗として認識しなければよい、ということになる。これが前編で紹介した認知療法なのだが、その認識の組み換えが自我の土俵のうえでなされる場合には、認識をどう組み換えたところで、その根拠をみすから背負わなければならない。つまり相対性を抜け出せない。

 自己における認識は「まさにそれである」を志向する。つまり、ただしく映す、ことを求める。手垢を根こそぎ洗い流すのだ。例にあげた失敗においても、手垢、それらが綺麗に洗われるならば、恐らくそう見えていたものがその姿ではなくなる。とはいえ、やはり失敗を失敗としてただしく認識することも手放さない。誤魔化しはありえない。あるがままの「まさにそれ」を受け取るのだ。
 この状態こそ「自分を棄てる」ことだ。自我による余剰が剥ぎ取られた世界では不思議と覚悟もまた、降りてくる。迷いや恐れがないのだ。
 ただし。「まさにそれである」という確信へと至るための思慮は不可欠だ。といっても、ただしく映す、その気持ちがあれば思慮は自ずと養われていくので心配はいらない。


 無論、自己においても苦難や困難は容赦なく襲いかかってくる。派生する感情を味わうことにもなるが、それら現象を眺めやるにしても埋没はしない。生を受けたということは、否応なしに存在の構造に巻き込まれていることだ。よって最後のところ、存在の構造に責任を帰すことを知っているので、視線の先を常に真ん中に向ける余裕が生じる。絶対的受容が身につく。

 殺し文句「あるようにある」あるいは「なるようになる」。逆説的絶対肯定。


 淡々としているようにみえて、その奥には情熱が宿っている。自己において、より人間味が増す。なぜというに「人間」そのものであることなのだから。良し悪しにおいて良いものを求めるようになる。「良いものを求める」在り方、これを感覚的に表現するならば、胸を張れるかどうか、個人的には「魂の美しさ」がしっくりくる。「魂の美しさ」を求めることにおいて自ずと選び取られる、その単純な一択なのだ。迷いも不安も恥らいも疚しさもそこに発生する余地はない。断っておくが、道徳的な話をしているつもりは一切ない。人間ないし言葉ないし意味の構造がそうなっているだけのことで、この事態を好き好んでいるわけでもなく、どちらかといえば諦めに近い。

 自己における選択とは、選択の余地なき選択であって命の一点張り、「これしかねえ」、むしろ ”Rock” なのだ。


 自己において人生を味わう。こちらは精神的病とは論理的に無縁である。自我を手放すことが前提となる、が、慣れ親しんだ状態を手放すのであるから容易な作業ではないことも付け加えておく。とはいえ、誰にとっても可能であること、それもまた疑いようはない。姉御の言葉で結びとする。


『自我が完璧な虚無となったからこそ、そこに全てが流れ込んでくる』

『私たちが考えるとは、考えが考え自身を(私たちにおいて)考えているのである。
”わかる”とは考えについての考え自身の気付きである』

ー 池田晶子

【補記】 

 当記事に書かれていることを理解したい方は姉御の「人生のほんとう」という著書をお勧めします。『自己』『私』『これ』(すべて同じもの)を説明するために参考にしました。晩年に出版された、珍しく講義録の体裁をとったもので円熟した柔らかい姉御がいます。「語り調」なので文章は非常にソフトでわかりやすい。相変わらずの姉御節は健在。