「疑え、そして信じろ」
…それでいいのか。何か食い足りない。吠える者、噛み付く者、足掻く者たちの絶対数が減ったように、疑うことを知らない輩が増えたように感じる。
素直であることと鵜呑みにすることは同じではない。ところで、事実であるとは事実であるとそう信じていることだ。鵜呑みにした事実を信じさせ続けること、これを洗脳と言う。教育という名で呼ばれることもある。
近年、露骨な情報操作が行われていることがより明らかとなった。TVのニュース番組も各局で取り上げる題材と、取り上げ方の足並みが揃っている。同じになるためには、そこに人為的な何かが働かなければありえない。
事実は認識の深まりによって変わるという端的な事実をまず知っておこう。
「なぜ学校に行かなければいけないの?」
かつて子供だった頃、そう思った方は少なくない筈だ。子供の率直な疑問は大人をハッとさせる。さて、貴方はどのように答えるだろうか。そもそも教育とは何か。簡単に答えが出るものではないことも承知している。とはいえ、この地点で考えることを放棄する者とそうでない者とに分かれる。答えられないことが問題なのではなく、答えを求めないことが問題なのだ。もしくはそもそもの始まり「これは?」「なぜ?」がないことが問題なのだ。
繰り返すが、事実であるとは事実であると信じていることだ。そして信じるとは本来意志を含んだ、自覚的に選択する行為だ。信じないもまた同じ。信じるな、疑え、そして信じろ。盲信を突き破ったその先、握り締めたその答えを信じろ。
考えることは行為だ。考えは眼に映る。考えることによって深まる認識、それがもたらす姿勢、振る舞い。誰にでも同じ問いが訪れるわけではない。問いすら選べない。だからこそ、個性が燦然と輝くのだ。個性とは宿命だ。個性を生かすとはそういうことだ。己の問いを、その答えを、己の事実を生きる。個性は既に十分に、ある。
誰もが手にした答えを生きている。それらは普遍から照らされているそれか。握り締めたものが紛い物ではないか、今一度確認してみよう。