プロローグ

◆はじめに

 昔、アルバイト先の店長に言われた忘れられない言葉がある。

 あの頃の日々は生き地獄と呼ぶにふさわしく、よく生き延びたものだと思う。精神の闇、その際限のなさに圧倒されていた。「これがありえるのか?」その世界が自らの認識の産物であることには気付いていたが、ありえないものがありえてしまうその世界、それが現実として頑としてあることには違いなく、恐怖に飲み込まれていた。そんな時に突きつけられた言葉だ。

「オマエは被害者面した加害者だよ」

 事実そうだった。そして、この言葉に導かれた。人を射抜く言葉に人は倒れない。
「自分のことばかり考えている人」という言い方がある。精神的病の渦中にいる時、人は内ばかりを見てしまう。結果、内に拡散する自分の声(認識)が絶対化されていく。知らず知らずのうちに世界を独語で満たしてしまう。その世界に他者はいない。挙句、虐げられている側のように振舞う。世界を正視せず、歪めた状態で対峙するその姿勢に対して放たれた言葉だった。

 この時期を通じて学んだことが幾つかあった。断片的ではあるが、この章『精神病理』にて提示してみようと思う。内容の性質か醗酵途中だからか、文章にする困難に直面し手探り状態ではあるが。

 話を変える。NHKのテレビ番組『ねほりんぱほりん』で【家族を虐待した人】の回を見た。彼は紛れもなく反省しようと、変わろうと努力をしている人だ。が、その番組内での彼の言動からは、まだ「自分のことばかり考えている人」だと判断出来た。家族と一緒に住むには間違いなくまだ時期尚早だ。苦しんでいることは理解している。確か彼は「自分の正しさに囚われた被害者」だと語っていた。そうだ。そこがスタートだ。だがあえて言いたい。棄てるのは『正しさ』ではない。棄てるのは『自分』だ。おのれの人生の主体の座を明け渡すことだ。誤解される表現かもしれないが「一度死ぬ」ことだ。

 遠因に生い立ちや環境があるだろう。彼もまた被害者と言うこともできる。そして今、問題に直面している。苦しみの、負の連鎖。断ち切る仕事を与えられたのだ。それはあなたにしかできないことだ。こうした場合の「変わる」とは「棄てる」ことだ。肥大した自我に死を与えることだ。自分を手放して初めて人は自由になれる。委ねることを学ぶ。自我に拘泥するからこそ抱えこむそれらの苦しみも消える。


 自分を手放して初めて人は自分に出会う。


 繰り返しになるが、様々な問題の遠因には生い立ちや環境があるだろう。だがそれらに責を帰すことはできない。あなたは選ぶことが出来るからだ。苦しみの、負の連鎖。その一部となるか否か。加害者側になるか否か。断ち切る仕事を与えられたのだ。
割りを喰ってばかり、損な役割、そうだろうか。そうだ。実のところ、やはりそうだ。だからどうした。なあ、その格好いい背中を見せてくれよ。

池田晶子

 処女作には作家のすべてが詰まっているという。姉御の『事象そのものへ』も例外ではない。処女作はそうであるはずなのだ。それまで熟成し発酵してきたものが時を得て一気に噴出、炸裂するのだから。彼女の核にもっとも近く触れることができる作品だ。若さゆえの勢いあまった荒々しさも、本書の魅力のひとつだ。

 『事象そのものへ』の文章、その特徴は何よりもあの疾走感だ。読み手を置いていくかのようなテンポ。そもそもの動機が衝動として書いた、つまり読者云々よりも吐き出す作業だったのだろう。姉御は読み手の理解力の考慮なぞ一切していなかったに違いない。むしろ逆に信頼していたように思う。濃密度に凝縮された一文一文に、読み手は喰らい付かないと振り落とされる。とはいえこれも、余剰を良しとせず、端的で偽りのない表現を愛した結果ではある。姉御の文章スタイルとしては最も尖っていると思う。刊行時点で姉御は30歳(所収されている最も古い文章の執筆時は弱冠27歳)。真っ直ぐに、その猛々しさのままに言葉で射抜いた。

 以降の著書は、理解されないことに気付いたからだろう、伝わるように噛み砕いて読者に届けようとしたもの、或いは界隈の者を黙らせる露払いといった内容のものが多いので『事象そのものへ』のようなスタイルは見られない。


 姉御はヘーゲルを「千年に一人の化け物クラス」と述べていたが、 姉御も少なく見積もって「五十年に一人の化け物クラス」である。この人にバッサリと斬られた方々が気の毒だと思わないわけでもない。もし彼女の登場以前に何かしらの哲学にまつわる文章を公にしていたら自分も例外ではなかったはずだ。この自覚もまた形見のようなものである。
 姉御はしっかりとした指針を与えてくれた。彼女の仕事の最大の功績は、哲学を試みる者を路頭に迷わせないようにしたこと、哲学をそのあるべきところに保つよう促してくれたことにある、そう思っている。同時代に生を受けたことは幸運だった。奇跡と呼ぶことに躊躇いもない。精神のリレーか。確かに、ある。


 大事なことを書き忘れていた。出版業界では「作家の死は好機」という語があるらしい。姉御の死後、生きていたら許さなかったであろう類の本が著者「池田晶子」と騙って新刊として発売されている。なかなかの糞野郎がいるものだ。池田晶子に興味を持った方がおられるなら是非、彼女が生きていたときに初版が発行された”彼女の著書”を手にして頂きたい。


 以前オススメとして姉御の著書『考える人 口伝西洋哲学史』を記載していたが、西洋の哲学者たちの考えを土台にしている内容なので専門的過ぎるかもしれない、という理由で除外した。が、最近になって読み返したところ、これはどうも外せないと考えるようになった。

 可愛げのあるちょっぴり意地悪な心、と同時に断固とした潔癖さをもって姉御はこの本を書いたのだろう。真面目にそして結果的にふざけてしまわざるをえない、韜晦の真骨頂、遊び心が満載の笑える本だ。力量を示す意図もあったのだろう。前述した、界隈の者を黙らせる露払いの目的もあったように思われる。哲学を専門とする者にとって、この本は試金石である。もし、この本を読んで笑えない(そもそもが理解できない)のであれば、哲学と銘打ってなにかしらの作品を公表することは控えるべきだろう。偽者であることを公表するようなものだからだ。

 哲学そのなんたるかを誤解させてしまうような類の言論を、巷から減らそうとした姉御の折角の努力が水泡に帰してしまうのは避けたい。姉御が言わずに意図したことを言うのは、野暮の極みではあるのだが。

 哲学に関わらず、どの業界でもそうなのだが作品が多過ぎる。書店は入った途端に眩暈がする。単純に思うのだ。
「もっと少なくて良くないか?」

 歴史の吟味を経て、残るのは僅かだ。

BRUTUS、おまえもか!

  雑誌 BRUTUS(2019/8/15号) の特集「ことば、の答え。」が目にとまったので読んでみた。

 哲学と題されたページに、「○○とは?」という問いに数人が答えている文章があった。例えばこんな具合。

ことばとは?自由とは?時間とは?粋とは?
組み合わせでしかないのにブンブン振り回されて…自由は嫌い。でも確固としたどうでもよさって好き。腕時計の重さ憧れています。でも、憧れているうちは到達できない境地のような気がします。
「でしかない」わけでもないし、そもそも組み合わせでもない。自由は好き。でも確固としたどうでもよさってたぶん嫌い。初めて聞きました。言わずもがなの事で「粋」を語るのか?

(紙面より抜粋。※二段目は私のコメントです)

 専門の領域に携わっている者なら、評価の場に臨むときの緊張感を己の領分で実感しているはずだ。緊張感がない、抱いていない。領域外であれば断る選択もあったはずだ。「ここ」で活動する資格があるという自負がないのであれば、安易に手を出してくれるな。もちろん、手を出してくれるのはかまわない。

 ケンドリック・ラマーの楽曲「u」の歌詞の翻訳が記載されていた。魂を込めた超訳とあるが、込めた魂はお粗末だったようで、失意や悲痛が、それらの源である彼の真摯さが微塵も伝わってこない。彼を庇った友人が銃で撃たれて死んだ、そんな過去を背負った者の言葉遣いがあのような類でありえようか。

  編集者にも責任はある。なあなあの関係が垣間見える。
 TVも新聞も出版社も教師もサラリーマンと化した。矜持を失ったのか。
 これも時代か。神様は「御客様」から「雇用主様」に様変わりしたらしい。

 自分が何をしているのかその自覚を問いたいのだ。
 好き勝手やっていい。何をしようが勝手だろう。だから問われるのだ。自由が。
 誰もが等しく同じ土俵の上に立っている。

誇らしい笑みがいい。

まとめると、こう。
「真剣に、遊べ」

私の回答を書いてみました。

ことばとは?自由とは?時間とは?粋とは?
魂をかたちづくるもの。行為として表現されるもの。永遠は時間でしょうか?語らずに語ること。


ヘーゲル「わかってないとわからない」

 姉御の著書の中でヘーゲルに関する叙述箇所はどうしても読むリズムを断たれた。すんなりと読めない。腑に落ちない。スッキリしない。挙句「ヘーゲルは誰にでも読める」と仰る。「この程度のものが読めなくてどうするの」という挑発と、一方で「大丈夫」と頷いている姿を想像させるこの一句に促されヘーゲルを読もうと決心した。

 困った人だ、ヘーゲルという人は。至るところで悪口。それはいいとしてもヘーゲルを読む困難、それはその箇所で何について語っているのか、 あらかじめ 「わかっていないとわからない」文章なのだ。ある言語で書かれたものはその言語を解する者だけが読めるのと同じで、へーゲル語を解する者だけが読める、といえば伝わるだろうか。

 ところでヘーゲルをほんとうに読めている人はどれだけいるのだろう。解説本やそれらに類する文章も恐らく沢山あるだろうが、触れたものに限っていえば違う気がするものばかりだ。姉御に助け舟を求めようとしても「面倒臭い」ときた(姉御らしいそれはあるのだが)。正確さを期すとそんな結果になるのだとは思う。

 ならば名乗りをあげてやろうじゃないか。裾野は広がっていくほうが良いのだから、ヘーゲル理解の一助を試みてみようと思った次第である。とはいえこの「困ったおっさん」を正確に読める自信があるわけではない。この試みもつまりは結局、自身で読まれることを前提としたものとなるだろう。


 ところで。この記事を書いてヘーゲルと格闘しだしてからしばらく後、姉御の『事象そのものへ』を読み返してみた。所収の「存在の律動」こそが冒頭で述べた、読むリズムを断たれた文章であったことに気付いた。この文章は姉御によるヘーゲルの再構築、読みを見事に展開したもので、それはもう、圧巻だ。だから正確には、姉御は活動の初期の段階で立派な助け舟を出していた。

「なんだよ、ヘーゲル解説、既にあるじゃねえか」

…こんな時に自分のアホさ加減に呆れたりもする。

煽動としての序章その3

「疑え、そして信じろ」

  …それでいいのか。何か食い足りない。吠える者、噛み付く者、足掻く者たちの絶対数が減ったように、疑うことを知らない輩が増えたように感じる。

 素直であることと鵜呑みにすることは同じではない。ところで、事実であるとは事実であるとそう信じていることだ。鵜呑みにした事実を信じさせ続けること、これを洗脳と言う。教育という名で呼ばれることもある。
 近年、露骨な情報操作が行われていることがより明らかとなった。TVのニュース番組も各局で取り上げる題材と、取り上げ方の足並みが揃っている。同じになるためには、そこに人為的な何かが働かなければありえない。


 事実は認識の深まりによって変わるという端的な事実をまず知っておこう。


「なぜ学校に行かなければいけないの?」
 かつて子供だった頃、そう思った方は少なくない筈だ。子供の率直な疑問は大人をハッとさせる。さて、貴方はどのように答えるだろうか。そもそも教育とは何か。簡単に答えが出るものではないことも承知している。とはいえ、この地点で考えることを放棄する者とそうでない者とに分かれる。答えられないことが問題なのではなく、答えを求めないことが問題なのだ。もしくはそもそもの始まり「これは?」「なぜ?」がないことが問題なのだ。


 繰り返すが、事実であるとは事実であると信じていることだ。そして信じるとは本来意志を含んだ、自覚的に選択する行為だ。信じないもまた同じ。信じるな、疑え、そして信じろ。盲信を突き破ったその先、握り締めたその答えを信じろ。


 考えることは行為だ。考えは眼に映る。考えることによって深まる認識、それがもたらす姿勢、振る舞い。誰にでも同じ問いが訪れるわけではない。問いすら選べない。だからこそ、個性が燦然と輝くのだ。個性とは宿命だ。個性を生かすとはそういうことだ。己の問いを、その答えを、己の事実を生きる。個性は既に十分に、ある。


 誰もが手にした答えを生きている。それらは普遍から照らされているそれか。握り締めたものが紛い物ではないか、今一度確認してみよう。

煽動としての序章その2

「まず黙れ、そして考えろ」

 昨今は法律が錦の御旗らしい。やれコンプライアンスだやれ法令遵守だ。著名人が違法行為をしたとする。ネットやらメディアが喚きだす。「不謹慎だ!」・・・まずオマエが謹慎してくれ。

 法律なり風潮なりを後ろ盾に「正義は我にあり!」といったところか。しかしそもそも、何のための法律か、そこから考えることを忘れている。法律を絶対視する。素朴な疑問だが、善悪を自分で判断したくないのだろうか。


 ところで、横断歩道が赤信号だ。いっこうに車が通る気配がない。一刻を争う救急の病人が傍らにいる。病院は渡ったすぐそこにある。さて、どうする。
似たような事例が米国の大手コーヒーチェーン店であった。チェーン店の規約として商品を購入した客以外のトイレの使用が禁止されていたらしい。産気づいた妊婦が急いで駆け込んできたが、拒否されたそうだ。

 自分の頭で考えるより規約に従うほうが簡単か。恐らく波風立てず立ち回っているのだろう。それが煙のように立ち昇って蔓延し、息苦しい状況を招いていることを理解しているか。他人の目を気にした善悪の判断はむしろ害悪ですらあるのだ。自他への抑圧だということにも気付かない。選択以前であることにも気付かない。 当然、覚悟がない。誰にも頼らず後ろ盾もなく己ただ一人の責で決定を下したという自負を抱くまでは、安易に判断を口にするべきではない。


 選択の責を負わない姿勢は、図らずも責任転嫁を伴い、時には狡猾とさえ言える様相を呈す。「あの人が言ったから、そうしただけ」「法律は犯していない」「そういうものだろ?」。当のオマエはどこ行った。取り戻して来い。
ハンナ・アーレントはユダヤ人大虐殺の原因を「凡庸な悪」に認めた。この国で起こる不祥事の大半も同様だ。特高警察も特攻隊も、いつだって姿をかえて蘇るだろう。


 裸の状態で勝負したほうが、気持ち良いに決まっている。このただしさの責を独り背負う。そのうえで「知ったことかよ」。誤りだったとしても、こうした態度にこそ反省は訪れるのだろう。
 姉御から学んだことの一つに「自分の意見を言わない」ということがある。どういう意味か。簡単だ。 個人的意見なぞ、そもそも公然と言うものではない。個人の意見を超えた普遍を語ること、つまり誰にとってもそうであることを語るべきなのだ。この文章もそれだ(文体は除く)。


 普遍性を帯びた語り、それは最早意見ではない。ただの事実だ。誰にでもあてはまる真理だ。


 普遍を語る、その語り手は誰でも構わない。確信が持てるまで沈思すべきなのだ。黙することは賢さであり徳だ。「沈黙は金なり」と諺にもある。気品、気高さ、高貴。 練られた品性が人を美しく飾る。



◆法律について補足その1

 法律はこれこれの行為に対して罰則を与える、というガイドラインだ。法は叡智の集積でもあり、軽んじているわけではない。だが、下賤な意図も自ずと折込まれている。法律が常に「正しい」ものであれば、法案制定に対してデモが起こるはずもない。法律の相対性、国が変われば法律もまた変わるという端的な事実を感じるために「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ」をお薦めします。


◆法律について補足その2

 当たり前だが、法律はただしさを保障しない。法律を犯していないから潔白なのではない。悪巧みか否かは当人が一番わかっている。

煽動としての序章その1

「考えろ、そのためにまず感じろ」

 哲学というと頭でごにょごにょ難しいことを考える、そんなイメージだろうか。ありていにいえば「頭でっかち」。

 だが、それは大きな誤解だ。事実はまったく逆で、むしろ、ある種の感性が土台として絶対に必要なのだ。「哲学が難しい」というのはあながち間違いではないが、この土台にある感性が理解されないこと、また、それゆえに不慣れな考えであることに起因する。

 タイトルに「考えろ」と書いたが、その「考える」とはどういうことなのか、実は意外にも曖昧だ。
「考える」その行為の最中を描写することは難しい。だがその過程のひとつを経験したことは誰もがあるはずだ。ある瞬間に答えがフッと湧いてくる。当たり前だが、答えというものは問いを前提としている。つまり答えを欲する問いを抱かない限り、答えはありえない。考えるためには問いが必須であり、無意識的にせよ求めているからこそ、答えに出会うのだ。

 問いを抱えて生きること。否、既に生きていること。しかしこの自覚を持つ者は意外と少ない。

 周囲に流されることで、感性が閉ざされることがある。例えば「楽しければそれでいいじゃないか」。
どことなく違和感を覚えないのであれば、自身の感性を疑ったほうがいい。いじめですら楽しいのだ。分別が伴わないそれら楽しさは、薄皮を剥いでみれば醜悪な姿をしているものだ。バイトテロ、ハロウィーンの悪ノリ、枚挙に暇がない。楽しむということが単なる発散でしかないような、我が儘に化しているように思える。

 「楽しければそれでいいじゃないか」と発せられる現場は、不気味な暴力の気配がある。潜在的にか顕在化しているのか、気取られている何かがあって誰かがそれを伝える。その応答としての「楽しければそれでいいじゃないか」、これは気取られている何かを放置する、なかったことにする行為だ。そのような者が発する「楽しければいい」は怠慢でしかない。

 説教臭いことを言いたいわけではない。今しているのは感性の話である。気取られていた何かをこうして失っていくのだ。見落としていくものが一つ、また一つと増え、見落としていることにさえ気付かなくなるようになる。


 ゼロ地点で感じる力がとぼしくなっていないか。

 感性の喪失は問いの喪失を伴う。画一化とは、誰かから与えられたものしか問いとして設定できなくなることだ。創造性を失うことだ。感じる力の鈍化、想像力の喪失、それは貧しい生といって差し支えないだろう。昔、問題となった傘や煙草による子供の眼の怪我も、凶器になりえることすら気付かなくなった視野狭窄に由来する。感性の喪失、その代償はその人の振る舞い、生き方にまで及ぶ。

 では、考えるにはどうすればいいのか。簡単なことだ。問いを抱えて生きることだ。
問いは率直な、素直な感性に生じる。驚きは理解へ誘う。疑念は始まりの合図だ。違和感は道しるべとなる。感じ方が柔軟であれば、考え方も柔軟である。逆もまた同じ。というより、感性と思考は編まれた一つの綱だ。


 結論。既にその答えをきている。絶えず無知を自覚しろ。新たな問いはおのずと訪れる。ギリシャの哲人が隣で囁く。

「汝自身を知れ」