序章(三つの記事)をより理解してもらいたくて本記事を書いた。「考える」とはどういうことなのか。ロダンの彫刻「考える人」をイメージする人もいるかもしれない。ただそうなるのも作品に罪はなく、単に有名だったことによる。考える、その実態がよくわからない方のために「嫌われたくない」を題材にして提示したい。
冒頭は、考えるその生(なま)の現場を披露する。頭に浮かんできたものを出来るだけ逃さず、可能な限り整理して記述した。が、文章があちこちに散らかることは御了承願いたい。始める。
「嫌われる」とはどういう事態なのか、転じて「嫌う」はどうだろう。
ある人を嫌うとは、どういう理由でそうなのか。相性とするなら不可避で確率の問題となる。しかし嫌いがのちに好きに転じることもあるから、一時的な感情といえるかもしれない。
この感情はどうやら制御不可能のようだ。つまり交通事故の類ということになる、が、どうも違う気もする。他人の不快さが際立つのは、自分の写し鏡としての作用であり、自分に依拠していることは経験から推測できる。
さて、嫌いの発生源は嫌う側、嫌われる側のどちらにあるのか。嫌われる側の問題であれば、その人は誰といても同じような理由で嫌われる。その人の、人として好ましくない性質が改善されないことには(このことはしかし、いつまでたってもお互い様だ)。
「嫌われる」も「嫌う」もその源は結局、自分なのではないか。嫌うこと、そのこと自体は相手ではなく自分の問題のようだ。嫌われる、これも自分が「そういう状態にある」とすることであって、実は他人は関係ないのかもしれない。他人も同様のはずで、よくよく調べると「嫌われる」には実態がなく、ただ「嫌う」しかない、といえるかもしれない。本人に「嫌われている」自覚がないのであれば、他人の「嫌う」のみがあることになる。「好き」の確かさと「好かれている」の確かさはどうだろう。
少し視野を変えてみる。「嫌われたくない」が「仲間外れにされたくない」「目立ちたくない」の意味であれば、周囲から浮くことを恐れているのだろう。その場合「少数派側になりたくない」とさほど変わらない。少数派と多数派、どちらに属すかは尺度によってころころ変わる。確かに少数派は侮辱を受けやすい。が、常に多数派側にいることを望むかといえば、偽りの安心でしかないそこが心地良くないことは既に知っている。
また、一対一の関係で対立を恐れるのであれば、対等の関係を失うことではないだろうか。その先に信頼は訪れるだろうか。そもそも嫌いという感情を抱くことは好ましいことなのか。それを皆が望むだろうか。少なくとも積極的に味わいたい感情ではない。
とまあ、思い付くままにに繰り広げてみたが、渦中にいないので理屈しか書けないことに気づいた。考えることがどのようなことであるのか、この記事はそれを示すことだ。続ける。
この段階で大切なことは、答えに手が届くことではない。答えに辿りつくための考え、その量を増やし凝縮した質に高めて、それらを網の目のように張り巡らすことだ。そうすることで無意識的な視野の拡大が付随する。張り巡らせた無数の考え、それら先端を世界に設置し、そこで発火が起こるのを待つ。世界に張り巡らせた無数の考えによって気付きの、フィードバックの量が増える。考えた、知ったからこそ、他人あるいは世界に気付きを見出すことが可能となる。特別なことでもなんでもなく、誰もがしていることでもある。例えば、その作業について知れば知るほど、彼の動きの無駄のなさに気付けるようになった、とか、仕事に慣れるに従ってなぜ彼女がその段取りを大切にしているかが理解できた、とか。
思考が感性を磨く。記事『煽動としての序章その1』で「思考と感性は編まれた一つの縄」と書いたのはそういう意味だ。考えることによって新たな発見と出会い、その発見によって考えが進展していく。感性の領域が拡大しているからこそ、結びつく。無意識にせよ、以前に意識に上らせた事柄だからこそ気付きが訪れる。いわば回収作業が発生する。
この繰り返しによって、点と点がつながって一気に開ける瞬間、「ああ、そうか。そうだったのか」とわかる瞬間が訪れる。確信に至るのだ。ニュートンが落下するリンゴをみて万有引力に思い至ったのも、故なきことではない。
「本を読んで知見を広げる」とは、世界に横たわる事象への気付きを得ること、自分自身の事柄として出会うことであって、内容をただ鵜呑みにすることではない。知見を広げるとは、文字通り、知ったうえで見る、気付きの領域を拡大することだ。本に答えがあるわけではない。答えに出会う、血肉とすることと知見を広げることは別物だ。このことを踏まえるならば、本を読むことは有益だ。・・・クソみたいな本も大量に出回っていることでもあるし。
ここからは、上記を書いてしばらく経過した後に発火が生じて得られたものだ(内容の発展というよりは、他の記事で書いていることと結びついた、といったもの)。アウトプットありきのインプット、吐き出して吸う。つまりは言語化によって考えは発展していく。言語化はきわめて大切で、自分が何について関心があるのか、それらが明確になる。というより、明確にする作業そのことだ。そもそも関心事でなければ頭に浮かんでくることもない。これらをキャッチすることが始まりだ。いったん「嫌われたくない」に戻る。
嫌われることを恐れて生きた場合の、いわば結果の方から考えてみよう。どうなるか。
一つ目。周りに流される生き方を選択するようになる。習慣化すれば、ほぼ無意識的にその選択が実行される。自分で決めていないので、当然ながら自分で選択したという実感もない。そうなると、おのれの在り様(例えば惨めさ、生き辛さなど)を他人ないし社会に責任転嫁する態度に陥りやすい。「自分で決めたわけではない」と思い込んでいるのだから。
二つ目。頭で考えただけの抽象(空想)がいつのまにか「事実」となる。「人間とはそういうものだ」あるいは「人生はそんなものだ」「現実はそういうものだ」など。この代償は高くつく。諦観と、感性の麻痺が進む。周囲への、さらには自分への関心も失っていく。いや、恐らく失っていることにも気付かない。こうした姿勢は、嫌われないかもしれないが好かれることもない。この時にはもう、個性が見えにくくなっているのだから。
話を、「考える」ことについてへと戻そう。
人はみな手にした答え、考えを生きている。「考えるより先に体が動いた」とはよく聞くが、その言わんとするところは「自然と」あるいは「無我夢中で」という意味だろう。注意してほしい点は、どのように動いたのかは「考え」による、ということだ。救助の場面であれば、救助が他に優先される価値としてその人の魂に刻まれていたからで、サッカーで不意をつく走りをしたのは決定的な地点でパスを受けるためだ。どちらの例も、その動きをその時の最善として認めていたから、その行為となった。よって「考えるより先に体が動いた」というのは方便で、実際のところは「意識する暇もなく、既に宿していた考えが実行された」がより正確な事態だろう。
その人の考えは行為に表現される。別の例をだそう。「悪いとわかっていたがしてしまった」とは結局のところ、悪いと思っていなかった、あるいは、わかっていなかったのであって、と同時に、体裁をつくろう発言をする人間であること、これらを明確に表現している。もっと言えば、発言時点においても「悪いと思っていない」と判断できる時もある。「悪いとわかっているがしてしまった」にこれ以外の捉え方があるか?(かつての自分がそうであったから間違いない)
ともかくも、あらゆる行為は「その考え」によって「その行為」となる。ということは、すべてが考えの結果なのだから、その考えが問われるということでもある。選択の連続、その過程において考えを深めていくことこそ「問いを携えて生きる」ことであり、「考える」とはこういうことなのだ。それが大切だ、ということでもなくて、人生を歩むそのことなのだ。考え方が変われば、生き方が変わるのは当然の理(ことわり)であって、哲学があらゆる学問のメタに位置付けられていることも当然なのだ。
ただしい選択が可能であるなら、吟味を経たうえで選択され、かつ、誤りがあればそれを認める、こうした過程の繰り返しの先に見出されるものだろう。答えというものは問いあっての答えなのだから、求める姿勢、問いを持つ姿勢は不可欠だ。ソクラテスが言った「無知の知」とは「知らない。わからない。だから求める」という姿勢に他ならない。言うまでもないことだが、問いを携えるといっても問いの形式である必要はなく、「考え」を張り巡らしたうえで世界と、おのれと向き合うだけのことだ。
「考える」とは、答えを選び取る過程にあると自覚することだ。そして、当たり前だが、誰も自分の代わりに考えることはできない。そもそもが独りきり、孤独な作業であるから、その決断は孤独の上に成り立つ。よって孤独を恐れようがない。自らの決断が本当にただしいのか、それをそのような価値としたことが本当にただしいのか、ケツを拭く覚悟は既に備わっているはずで、孤独の不安に怯えて徒党を組む必要もない。「この」孤独は不安を携えない。独りきりで、充分に胸を張れるのだ。魂の高潔さ、真贋はこうしたところで確認できる。
・・・着地点を見失ってしまった。無理矢理の結論。「考える」と嫌われることを恐れることはできなくなる。
選択することの大切さに関しては、記事「自分を愛することについて」を読んでみてください。