ヘーゲル「わかってないとわからない」

 姉御の著書の中でヘーゲルに関する叙述箇所はどうしても読むリズムを断たれた。すんなりと読めない。腑に落ちない。スッキリしない。挙句「ヘーゲルは誰にでも読める」と仰る。「この程度のものが読めなくてどうするの」という挑発と、一方で「大丈夫」と頷いている姿を想像させるこの一句に促されヘーゲルを読もうと決心した。

 困った人だ、ヘーゲルという人は。至るところで悪口。それはいいとしてもヘーゲルを読む困難、それはその箇所で何について語っているのか、 あらかじめ 「わかっていないとわからない」文章なのだ。ある言語で書かれたものはその言語を解する者だけが読めるのと同じで、へーゲル語を解する者だけが読める、といえば伝わるだろうか。

 ところでヘーゲルをほんとうに読めている人はどれだけいるのだろう。解説本やそれらに類する文章も恐らく沢山あるだろうが、触れたものに限っていえば違う気がするものばかりだ。姉御に助け舟を求めようとしても「面倒臭い」ときた(姉御らしいそれはあるのだが)。正確さを期すとそんな結果になるのだとは思う。

 ならば名乗りをあげてやろうじゃないか。裾野は広がっていくほうが良いのだから、ヘーゲル理解の一助を試みてみようと思った次第である。とはいえこの「困ったおっさん」を正確に読める自信があるわけではない。この試みもつまりは結局、自身で読まれることを前提としたものとなるだろう。


 ところで。この記事を書いてヘーゲルと格闘しだしてからしばらく後、姉御の『事象そのものへ』を読み返してみた。所収の「存在の律動」こそが冒頭で述べた、読むリズムを断たれた文章であったことに気付いた。この文章は姉御によるヘーゲルの再構築、読みを見事に展開したもので、それはもう、圧巻だ。だから正確には、姉御は活動の初期の段階で立派な助け舟を出していた。

「なんだよ、ヘーゲル解説、既にあるじゃねえか」

…こんな時に自分のアホさ加減に呆れたりもする。

池田晶子

 処女作には作家のすべてが詰まっているという。姉御の『事象そのものへ』も例外ではない。処女作はそうであるはずなのだ。それまで熟成し発酵してきたものが時を得て一気に噴出、炸裂するのだから。彼女の核にもっとも近く触れることができる作品だ。若さゆえの勢いあまった荒々しさも、本書の魅力のひとつだ。

 『事象そのものへ』の文章、その特徴は何よりもあの疾走感だ。読み手を置いていくかのようなテンポ。そもそもの動機が衝動として書いた、つまり読者云々よりも吐き出す作業だったのだろう。姉御は読み手の理解力の考慮なぞ一切していなかったに違いない。むしろ逆に信頼していたように思う。濃密度に凝縮された一文一文に、読み手は喰らい付かないと振り落とされる。とはいえこれも、余剰を良しとせず、端的で偽りのない表現を愛した結果ではある。姉御の文章スタイルとしては最も尖っていると思う。刊行時点で姉御は30歳(所収されている最も古い文章の執筆時は弱冠27歳)。真っ直ぐに、その猛々しさのままに言葉で射抜いた。

 以降の著書は、理解されないことに気付いたからだろう、伝わるように噛み砕いて読者に届けようとしたもの、或いは界隈の者を黙らせる露払いといった内容のものが多いので『事象そのものへ』のようなスタイルは見られない。


 姉御はヘーゲルを「千年に一人の化け物クラス」と述べていたが、 姉御も少なく見積もって「五十年に一人の化け物クラス」である。この人にバッサリと斬られた方々が気の毒だと思わないわけでもない。もし彼女の登場以前に何かしらの哲学にまつわる文章を公にしていたら自分も例外ではなかったはずだ。この自覚もまた形見のようなものである。
 姉御はしっかりとした指針を与えてくれた。彼女の仕事の最大の功績は、哲学を試みる者を路頭に迷わせないようにしたこと、哲学をそのあるべきところに保つよう促してくれたことにある、そう思っている。同時代に生を受けたことは幸運だった。奇跡と呼ぶことに躊躇いもない。精神のリレーか。確かに、ある。


 大事なことを書き忘れていた。出版業界では「作家の死は好機」という語があるらしい。姉御の死後、生きていたら許さなかったであろう類の本が著者「池田晶子」と騙って新刊として発売されている。なかなかの糞野郎がいるものだ。池田晶子に興味を持った方がおられるなら是非、彼女が生きていたときに初版が発行された”彼女の著書”を手にして頂きたい。


 以前オススメとして姉御の著書『考える人 口伝西洋哲学史』を記載していたが、西洋の哲学者たちの考えを土台にしている内容なので専門的過ぎるかもしれない、という理由で除外した。が、最近になって読み返したところ、これはどうも外せないと考えるようになった。

 可愛げのあるちょっぴり意地悪な心、と同時に断固とした潔癖さをもって姉御はこの本を書いたのだろう。真面目にそして結果的にふざけてしまわざるをえない、韜晦の真骨頂、遊び心が満載の笑える本だ。力量を示す意図もあったのだろう。前述した、界隈の者を黙らせる露払いの目的もあったように思われる。哲学を専門とする者にとって、この本は試金石である。もし、この本を読んで笑えない(そもそもが理解できない)のであれば、哲学と銘打ってなにかしらの作品を公表することは控えるべきだろう。偽者であることを公表するようなものだからだ。

 哲学そのなんたるかを誤解させてしまうような類の言論を、巷から減らそうとした姉御の折角の努力が水泡に帰してしまうのは避けたい。姉御が言わずに意図したことを言うのは、野暮の極みではあるのだが。

 哲学に関わらず、どの業界でもそうなのだが作品が多過ぎる。書店は入った途端に眩暈がする。単純に思うのだ。
「もっと少なくて良くないか?」

 歴史の吟味を経て、残るのは僅かだ。

小林秀雄とその文体について

 取りこぼしがないか、そうあっては勿体ないという焦燥が視線を前へと連れ戻す。この澱みの正体は、整えられた鮮烈な意味の連なり、これが姉御の文体だ。小林秀雄の場合は趣きが違う。文に織り込まれた経験、生活、その強靭さを受容することが容易ではないのだ。

 この一文がなぜ生まれたのか、表現されたものはそのまま小林秀雄の生活、肉体であって、彼の得心とその明晰、扱う素材への愛を受け止めるには、読み手もまた相応の修練を要する。小林の強靭さは、物つまりはおのれと向き合う力にある。凝縮された忍耐が、読み手の精神の質を問う。

 小林は作品「モオツァルト」において以下のように語った。

 『例えば、風俗を描写しようと心理を告白しようと或いは何を主張し何を批判しようと、そういう解り切った事は、それだけでは何の事でもない、ほんの手段に過ぎない、そういうものが相寄り、相集まり、要するに数十万語を費やして、一つの沈黙を表現するのが自分の目的だ、と覚悟した小説家、又、例えば、実証とか論証とかいう言葉に引き摺られては編み出す、あれこれの思想、言いかえれば相手を論破し説得する事によって僅かに生を保つ様な思想に飽き果てて、思想そのものの表現をめざすに至った思想家、そういう怪物達は、現代にはもはやいないのである。真らしいものが美しいものに取って代わった、詮ずるところそういう事の結果であろうか。それにしても、真理というものは、確実なもの正確なものとはもともと何の関係もないのかも知れないのだ。美は真の母かも知れないのだ。然しそれはもう晦渋な深い思想となりおわった』

 沈黙から生まれる美。戯れというには覚悟がありすぎる。美の純粋は、おしゃべりを取り除けば現れる、そうしたものではない。美は真らしいものに取って代わってしまった。虚飾の仮面を剥いでみたとして、気付かれてもいない美が、そこにあるわけでもないだろう。さらには晦渋なものとして、真は遠ざけられてしまった。怪物が消えたことへの、深い喘息。とはいえ、解り切った事を言っているだけでは何にもなるまい、こうして小林は怪物たらんと努めた。一方で、姉御は怪物として小林の方法を真似た。


 小林秀雄を揶揄する者が言うには、彼の文章は「どうだ!この野郎」という見栄に尽きる、およそこのような批判だった。なるほど、その傾向は確かにある。いや、むしろその指摘は的を得ているといってよい。「御伽噺や空想の類には倦んだ。俺は語られているものに耳を澄ます、これがそうだ、そうではないか」。小林の基調は一貫していたし、簡潔そのものであった。

 小林が格好付けしいだったことに間違いない。ランボーを邦訳した人物である。ランボーのその早熟、鋭敏を好む者で「格好良さ」を価値として認めない者がいるはずもない。表現するのであれば「格好良い」方が良い、そう思うのは至極当然で非難にはあたらない。むしろ、最近の表現にこの要素がみられないことが残念で仕方がない。この要素こそが魅惑的なのだ。人を惹きつけるのだ。格好良くないロックンローラーはロックンローラーとして認めない。なぜなら格好良くないから。格好良さも美も、共通しているのは気概なのだ。否応なしの生き様、不可避の覚悟が滲み出てしまっているかどうか。


 昔の話だが「ロックって結局何なのさ」という質問に友人がこう答えた。「俺についてこい!じゃない?」
そのとおりだと思う。「俺についてこい」、そう言える覚悟をもつ者がどれだけいるだろうか。信頼に足る自分である、確然たる決意なくして先の発言は不可能だ。
「間違い?物の数じゃねえ、生き切ろうぜ」

 小林の矜持に応答できるだけの度量を持ち合わせていない者が多かったから「小林秀雄は難しい」という物言いが流通した。小林の書いたものを理解できないからといって、文句を言うのはお門違いというものだろう。おしゃべり云々の前に、純粋な美を見つめるがよい。眼前の、そこにすでにある、それ。


 考えるヒントのあとがきに「緊張を強いられる」と書いてあった。一度読んでわからなくとも、経験を積んで再度読み直す、味わうことができる、それが小林の文章だ。優れた文章、その答えを最近知った。月並みではあるが、何度も読み返すことを誘う力をもち、都度で新たな発見をもたらすもの、がその一つなのだろう。小林と姉御、御二人に及ぶはずもない。が、やはり足掻きたくてのこの文章。小林秀雄というモチーフに出会った、であればロックを追求してみよう、挑戦した。何を言っているわけでもない。


『意は似せ易く、姿は似せ難し』

意であれば、とうの昔に書くことなくなってらぁ。