3. 自己
では自己はどうだろうか。自己の舞台は個人を超えた、広大な地平だ。自己は自身を含むあらゆる自我を相対化している。自ら価値序列を構築をするのではなく、誰にとってもそうであるところの普遍的な価値序列、既にあるそれに身を委ねる。
自我のそれとの違いを簡潔に表現すると、自我において「自分にとってどうであるか」であったものが、自己においては単にあるいは純粋に「どうであるか」となる。自我の色付け、余剰を取り除いてありのままをみる。それだけのことだ。
自我が正当化に囚われるのに対し、自己は正当化から無縁である。自ら構築した価値序列ではないので、それに対する評価を気にかける必要がない。自己の正当性、その根拠を問われても困るのだが、実は既に根拠なのだ。
例えば「正義」は、それが正義であるかぎりで正義なのだが、その確信を求める、誰にとっても正義であるものを正義として認めるその姿勢こそが、普遍に身を委ねることだからだ。
失敗について考えてみよう。なにかしらの判断材料がなければ、つまり成功の基準を設定していなければただ結果があるだけだ。なぜ失敗とみなしているのか、その判断基準はどうしてそうなのか。確かに失敗はある。しかし、ありのままに認識しているだろうか。期待なり成功基準なり自分が付け加えた諸々が覆い被さることで、行為本来の価値を不明瞭にしてはいまいか。
とどのつまり、失敗として認識しなければよい、ということになる。これが前編で紹介した認知療法なのだが、その認識の組み換えが自我の土俵のうえでなされる場合には、認識をどう組み換えたところで、その根拠をみすから背負わなければならない。つまり相対性を抜け出せない。
自己における認識は「まさにそれである」を志向する。つまり、ただしく映す、ことを求める。手垢を根こそぎ洗い流すのだ。例にあげた失敗においても、手垢、それらが綺麗に洗われるならば、恐らくそう見えていたものがその姿ではなくなる。とはいえ、やはり失敗を失敗としてただしく認識することも手放さない。誤魔化しはありえない。あるがままの「まさにそれ」を受け取るのだ。
この状態こそ「自分を棄てる」ことだ。自我による余剰が剥ぎ取られた世界では不思議と覚悟もまた、降りてくる。迷いや恐れがないのだ。
ただし。「まさにそれである」という確信へと至るための思慮は不可欠だ。といっても、ただしく映す、その気持ちがあれば思慮は自ずと養われていくので心配はいらない。
無論、自己においても苦難や困難は容赦なく襲いかかってくる。派生する感情を味わうことにもなるが、それら現象を眺めやるにしても埋没はしない。生を受けたということは、否応なしに存在の構造に巻き込まれていることだ。よって最後のところ、存在の構造に責任を帰すことを知っているので、視線の先を常に真ん中に向ける余裕が生じる。絶対的受容が身につく。
殺し文句「あるようにある」あるいは「なるようになる」。逆説的絶対肯定。
淡々としているようにみえて、その奥には情熱が宿っている。自己において、より人間味が増す。なぜというに「人間」そのものであることなのだから。良し悪しにおいて良いものを求めるようになる。「良いものを求める」在り方、これを感覚的に表現するならば、胸を張れるかどうか、個人的には「魂の美しさ」がしっくりくる。「魂の美しさ」を求めることにおいて自ずと選び取られる、その単純な一択なのだ。迷いも不安も恥らいも疚しさもそこに発生する余地はない。断っておくが、道徳的な話をしているつもりは一切ない。人間ないし言葉ないし意味の構造がそうなっているだけのことで、この事態を好き好んでいるわけでもなく、どちらかといえば諦めに近い。
自己における選択とは、選択の余地なき選択であって命の一点張り、「これしかねえ」、むしろ ”Rock” なのだ。
自己において人生を味わう。こちらは精神的病とは論理的に無縁である。自我を手放すことが前提となる、が、慣れ親しんだ状態を手放すのであるから容易な作業ではないことも付け加えておく。とはいえ、誰にとっても可能であること、それもまた疑いようはない。姉御の言葉で結びとする。
『自我が完璧な虚無となったからこそ、そこに全てが流れ込んでくる』
『私たちが考えるとは、考えが考え自身を(私たちにおいて)考えているのである。
”わかる”とは考えについての考え自身の気付きである』
ー 池田晶子