煽動としての序章その1

「考えろ、そのためにまず感じろ」

 哲学というと頭でごにょごにょ難しいことを考える、そんなイメージだろうか。ありていにいえば「頭でっかち」。

 だが、それは大きな誤解だ。事実はまったく逆で、むしろ、ある種の感性が土台として絶対に必要なのだ。「哲学が難しい」というのはあながち間違いではないが、この土台にある感性が理解されないこと、また、それゆえに不慣れな考えであることに起因する。

 タイトルに「考えろ」と書いたが、その「考える」とはどういうことなのか、実は意外にも曖昧だ。
「考える」その行為の最中を描写することは難しい。だがその過程のひとつを経験したことは誰もがあるはずだ。ある瞬間に答えがフッと湧いてくる。当たり前だが、答えというものは問いを前提としている。つまり答えを欲する問いを抱かない限り、答えはありえない。考えるためには問いが必須であり、無意識的にせよ求めているからこそ、答えに出会うのだ。

 問いを抱えて生きること。否、既に生きていること。しかしこの自覚を持つ者は意外と少ない。

 周囲に流されることで、感性が閉ざされることがある。例えば「楽しければそれでいいじゃないか」。
どことなく違和感を覚えないのであれば、自身の感性を疑ったほうがいい。いじめですら楽しいのだ。分別が伴わないそれら楽しさは、薄皮を剥いでみれば醜悪な姿をしているものだ。バイトテロ、ハロウィーンの悪ノリ、枚挙に暇がない。楽しむということが単なる発散でしかないような、我が儘に化しているように思える。

 「楽しければそれでいいじゃないか」と発せられる現場は、不気味な暴力の気配がある。潜在的にか顕在化しているのか、気取られている何かがあって誰かがそれを伝える。その応答としての「楽しければそれでいいじゃないか」、これは気取られている何かを放置する、なかったことにする行為だ。そのような者が発する「楽しければいい」は怠慢でしかない。

 説教臭いことを言いたいわけではない。今しているのは感性の話である。気取られていた何かをこうして失っていくのだ。見落としていくものが一つ、また一つと増え、見落としていることにさえ気付かなくなるようになる。


 ゼロ地点で感じる力がとぼしくなっていないか。

 感性の喪失は問いの喪失を伴う。画一化とは、誰かから与えられたものしか問いとして設定できなくなることだ。創造性を失うことだ。感じる力の鈍化、想像力の喪失、それは貧しい生といって差し支えないだろう。昔、問題となった傘や煙草による子供の眼の怪我も、凶器になりえることすら気付かなくなった視野狭窄に由来する。感性の喪失、その代償はその人の振る舞い、生き方にまで及ぶ。

 では、考えるにはどうすればいいのか。簡単なことだ。問いを抱えて生きることだ。
問いは率直な、素直な感性に生じる。驚きは理解へ誘う。疑念は始まりの合図だ。違和感は道しるべとなる。感じ方が柔軟であれば、考え方も柔軟である。逆もまた同じ。というより、感性と思考は編まれた一つの綱だ。


 結論。既にその答えをきている。絶えず無知を自覚しろ。新たな問いはおのずと訪れる。ギリシャの哲人が隣で囁く。

「汝自身を知れ」