「まず黙れ、そして考えろ」
昨今は法律が錦の御旗らしい。やれコンプライアンスだやれ法令遵守だ。著名人が違法行為をしたとする。ネットやらメディアが喚きだす。「不謹慎だ!」・・・まずオマエが謹慎してくれ。
法律なり風潮なりを後ろ盾に「正義は我にあり!」といったところか。しかしそもそも、何のための法律か、そこから考えることを忘れている。法律を絶対視する。素朴な疑問だが、善悪を自分で判断したくないのだろうか。
ところで、横断歩道が赤信号だ。いっこうに車が通る気配がない。一刻を争う救急の病人が傍らにいる。病院は渡ったすぐそこにある。さて、どうする。
似たような事例が米国の大手コーヒーチェーン店であった。チェーン店の規約として商品を購入した客以外のトイレの使用が禁止されていたらしい。産気づいた妊婦が急いで駆け込んできたが、拒否されたそうだ。
自分の頭で考えるより規約に従うほうが簡単か。恐らく波風立てず立ち回っているのだろう。それが煙のように立ち昇って蔓延し、息苦しい状況を招いていることを理解しているか。他人の目を気にした善悪の判断はむしろ害悪ですらあるのだ。自他への抑圧だということにも気付かない。選択以前であることにも気付かない。 当然、覚悟がない。誰にも頼らず後ろ盾もなく己ただ一人の責で決定を下したという自負を抱くまでは、安易に判断を口にするべきではない。
選択の責を負わない姿勢は、図らずも責任転嫁を伴い、時には狡猾とさえ言える様相を呈す。「あの人が言ったから、そうしただけ」「法律は犯していない」「そういうものだろ?」。当のオマエはどこ行った。取り戻して来い。
ハンナ・アーレントはユダヤ人大虐殺の原因を「凡庸な悪」に認めた。この国で起こる不祥事の大半も同様だ。特高警察も特攻隊も、いつだって姿をかえて蘇るだろう。
裸の状態で勝負したほうが、気持ち良いに決まっている。このただしさの責を独り背負う。そのうえで「知ったことかよ」。誤りだったとしても、こうした態度にこそ反省は訪れるのだろう。
姉御から学んだことの一つに「自分の意見を言わない」ということがある。どういう意味か。簡単だ。 個人的意見なぞ、そもそも公然と言うものではない。個人の意見を超えた普遍を語ること、つまり誰にとってもそうであることを語るべきなのだ。この文章もそれだ(文体は除く)。
普遍性を帯びた語り、それは最早意見ではない。ただの事実だ。誰にでもあてはまる真理だ。
普遍を語る、その語り手は誰でも構わない。確信が持てるまで沈思すべきなのだ。黙することは賢さであり徳だ。「沈黙は金なり」と諺にもある。気品、気高さ、高貴。 練られた品性が人を美しく飾る。
◆法律について補足その1
法律はこれこれの行為に対して罰則を与える、というガイドラインだ。法は叡智の集積でもあり、軽んじているわけではない。だが、下賤な意図も自ずと折込まれている。法律が常に「正しい」ものであれば、法案制定に対してデモが起こるはずもない。法律の相対性、国が変われば法律もまた変わるという端的な事実を感じるために「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ」をお薦めします。
◆法律について補足その2
当たり前だが、法律はただしさを保障しない。法律を犯していないから潔白なのではない。悪巧みか否かは当人が一番わかっている。