処女作には作家のすべてが詰まっているという。姉御の『事象そのものへ』も例外ではない。処女作はそうであるはずなのだ。それまで熟成し発酵してきたものが時を得て一気に噴出、炸裂するのだから。彼女の核にもっとも近く触れることができる作品だ。若さゆえの勢いあまった荒々しさも、本書の魅力のひとつだ。
『事象そのものへ』の文章、その特徴は何よりもあの疾走感だ。読み手を置いていくかのようなテンポ。そもそもの動機が衝動として書いた、つまり読者云々よりも吐き出す作業だったのだろう。姉御は読み手の理解力の考慮なぞ一切していなかったに違いない。むしろ逆に信頼していたように思う。濃密度に凝縮された一文一文に、読み手は喰らい付かないと振り落とされる。とはいえこれも、余剰を良しとせず、端的で偽りのない表現を愛した結果ではある。姉御の文章スタイルとしては最も尖っていると思う。刊行時点で姉御は30歳(所収されている最も古い文章の執筆時は弱冠27歳)。真っ直ぐに、その猛々しさのままに言葉で射抜いた。
以降の著書は、理解されないことに気付いたからだろう、伝わるように噛み砕いて読者に届けようとしたもの、或いは界隈の者を黙らせる露払いといった内容のものが多いので『事象そのものへ』のようなスタイルは見られない。
姉御はヘーゲルを「千年に一人の化け物クラス」と述べていたが、 姉御も少なく見積もって「五十年に一人の化け物クラス」である。この人にバッサリと斬られた方々が気の毒だと思わないわけでもない。もし彼女の登場以前に何かしらの哲学にまつわる文章を公にしていたら自分も例外ではなかったはずだ。この自覚もまた形見のようなものである。
姉御はしっかりとした指針を与えてくれた。彼女の仕事の最大の功績は、哲学を試みる者を路頭に迷わせないようにしたこと、哲学をそのあるべきところに保つよう促してくれたことにある、そう思っている。同時代に生を受けたことは幸運だった。奇跡と呼ぶことに躊躇いもない。精神のリレーか。確かに、ある。
大事なことを書き忘れていた。出版業界では「作家の死は好機」という語があるらしい。姉御の死後、生きていたら許さなかったであろう類の本が著者「池田晶子」と騙って新刊として発売されている。なかなかの糞野郎がいるものだ。池田晶子に興味を持った方がおられるなら是非、彼女が生きていたときに初版が発行された”彼女の著書”を手にして頂きたい。
以前オススメとして姉御の著書『考える人 口伝西洋哲学史』を記載していたが、西洋の哲学者たちの考えを土台にしている内容なので専門的過ぎるかもしれない、という理由で除外した。が、最近になって読み返したところ、これはどうも外せないと考えるようになった。
可愛げのあるちょっぴり意地悪な心、と同時に断固とした潔癖さをもって姉御はこの本を書いたのだろう。真面目にそして結果的にふざけてしまわざるをえない、韜晦の真骨頂、遊び心が満載の笑える本だ。力量を示す意図もあったのだろう。前述した、界隈の者を黙らせる露払いの目的もあったように思われる。哲学を専門とする者にとって、この本は試金石である。もし、この本を読んで笑えない(そもそもが理解できない)のであれば、哲学と銘打ってなにかしらの作品を公表することは控えるべきだろう。偽者であることを公表するようなものだからだ。
哲学そのなんたるかを誤解させてしまうような類の言論を、巷から減らそうとした姉御の折角の努力が水泡に帰してしまうのは避けたい。姉御が言わずに意図したことを言うのは、野暮の極みではあるのだが。
哲学に関わらず、どの業界でもそうなのだが作品が多過ぎる。書店は入った途端に眩暈がする。単純に思うのだ。
「もっと少なくて良くないか?」
歴史の吟味を経て、残るのは僅かだ。