取りこぼしがないか、そうあっては勿体ないという焦燥が視線を前へと連れ戻す。この澱みの正体は、整えられた鮮烈な意味の連なり、これが姉御の文体だ。小林秀雄の場合は趣きが違う。文に織り込まれた経験、生活、その強靭さを受容することが容易ではないのだ。
この一文がなぜ生まれたのか、表現されたものはそのまま小林秀雄の生活、肉体であって、彼の得心とその明晰、扱う素材への愛を受け止めるには、読み手もまた相応の修練を要する。小林の強靭さは、物つまりはおのれと向き合う力にある。凝縮された忍耐が、読み手の精神の質を問う。
小林は作品「モオツァルト」において以下のように語った。
『例えば、風俗を描写しようと心理を告白しようと或いは何を主張し何を批判しようと、そういう解り切った事は、それだけでは何の事でもない、ほんの手段に過ぎない、そういうものが相寄り、相集まり、要するに数十万語を費やして、一つの沈黙を表現するのが自分の目的だ、と覚悟した小説家、又、例えば、実証とか論証とかいう言葉に引き摺られては編み出す、あれこれの思想、言いかえれば相手を論破し説得する事によって僅かに生を保つ様な思想に飽き果てて、思想そのものの表現をめざすに至った思想家、そういう怪物達は、現代にはもはやいないのである。真らしいものが美しいものに取って代わった、詮ずるところそういう事の結果であろうか。それにしても、真理というものは、確実なもの正確なものとはもともと何の関係もないのかも知れないのだ。美は真の母かも知れないのだ。然しそれはもう晦渋な深い思想となりおわった』
沈黙から生まれる美。戯れというには覚悟がありすぎる。美の純粋は、おしゃべりを取り除けば現れる、そうしたものではない。美は真らしいものに取って代わってしまった。虚飾の仮面を剥いでみたとして、気付かれてもいない美が、そこにあるわけでもないだろう。さらには晦渋なものとして、真は遠ざけられてしまった。怪物が消えたことへの、深い喘息。とはいえ、解り切った事を言っているだけでは何にもなるまい、こうして小林は怪物たらんと努めた。一方で、姉御は怪物として小林の方法を真似た。
小林秀雄を揶揄する者が言うには、彼の文章は「どうだ!この野郎」という見栄に尽きる、およそこのような批判だった。なるほど、その傾向は確かにある。いや、むしろその指摘は的を得ているといってよい。「御伽噺や空想の類には倦んだ。俺は語られているものに耳を澄ます、これがそうだ、そうではないか」。小林の基調は一貫していたし、簡潔そのものであった。
小林が格好付けしいだったことに間違いない。ランボーを邦訳した人物である。ランボーのその早熟、鋭敏を好む者で「格好良さ」を価値として認めない者がいるはずもない。表現するのであれば「格好良い」方が良い、そう思うのは至極当然で非難にはあたらない。むしろ、最近の表現にこの要素がみられないことが残念で仕方がない。この要素こそが魅惑的なのだ。人を惹きつけるのだ。格好良くないロックンローラーはロックンローラーとして認めない。なぜなら格好良くないから。格好良さも美も、共通しているのは気概なのだ。否応なしの生き様、不可避の覚悟が滲み出てしまっているかどうか。
昔の話だが「ロックって結局何なのさ」という質問に友人がこう答えた。「俺についてこい!じゃない?」
そのとおりだと思う。「俺についてこい」、そう言える覚悟をもつ者がどれだけいるだろうか。信頼に足る自分である、確然たる決意なくして先の発言は不可能だ。
「間違い?物の数じゃねえ、生き切ろうぜ」
小林の矜持に応答できるだけの度量を持ち合わせていない者が多かったから「小林秀雄は難しい」という物言いが流通した。小林の書いたものを理解できないからといって、文句を言うのはお門違いというものだろう。おしゃべり云々の前に、純粋な美を見つめるがよい。眼前の、そこにすでにある、それ。
考えるヒントのあとがきに「緊張を強いられる」と書いてあった。一度読んでわからなくとも、経験を積んで再度読み直す、味わうことができる、それが小林の文章だ。優れた文章、その答えを最近知った。月並みではあるが、何度も読み返すことを誘う力をもち、都度で新たな発見をもたらすもの、がその一つなのだろう。小林と姉御、御二人に及ぶはずもない。が、やはり足掻きたくてのこの文章。小林秀雄というモチーフに出会った、であればロックを追求してみよう、挑戦した。何を言っているわけでもない。
『意は似せ易く、姿は似せ難し』
意であれば、とうの昔に書くことなくなってらぁ。