歴史を動かした者、歴史を透視した者、幾千もの先人たちの名が、それと知られることなく刻まれている。
この先人たちと出会うこと、それがわたしに宿る歴史なのだろう。歴史を知るとはいうが、それは知るというより、わたしに宿った幾千もの精神である。誰もがこのわたしという形式であり、自己という構造をもつ。そして歴史に、それと知られることなく刻まれる。
既に「何者」かであり、それと知るのは自分ではない。自分とは常に「何者」でもない。ただ自分であるよりほかにない。誰もがこの自分という形式であり、ここは自分の舞台、歴史の舞台、自己の舞台なのだ。
これがヘーゲルの考える歴史だ。そして誰にとっても納得のいく考えなら、ヘーゲルのというよりは誰のものでもある考えであろう。想いを馳せる、迎える、出会う、そして知る、そういった心地なのだろう。ちなみにこちらは小林がおもう歴史である。
だからどうした。