死ぬのが怖くなくなる。もっと言えば、死がよくわからなくなる。これは、効能か?
人生への「構え」が養われると姉御は言った。そう思う。
ある出来事の遅い遅くないをどう判断できるのか。後から振り返ってみた時に結果的に近道だった、とか、当時は最悪と感じていた出来事があったから今がある、とか、経験したことがあるだろう。何がどう転ぶかわからない。人間にとっては偶然でも、おおきな視座に立てばすべてが必然だ。バタフライ・エフェクト。事故に巻き込まれて死ぬことを誰も望んだりはしない。が、誰にでも起こりえる。死の訪れの遅い遅くないは決められない、が、確かに死はある、が、体験した者は一人もいない。体験がなくなること、それが死だ。未体験でしかありえないものの経験、というありえない形で還る。
「死を恐れることができなくなる」ことについては、姉御の著書を一読されたし。あの論理への信頼、あの実存的了解、あれは立派に真っ当なキチガイのそれだ。
遠足が楽しみで早起きした興奮気味の女の子に起こされた容姿端麗な母親が眠気が取れず少し胸をはだけた無防備な姿で陽気な新聞配達人と世間話をしている様子を自転車で振り返りながら見ていた三軒隣の青年が、二日前から会う約束をして友人宅へと訪れた男が側路に止めていた車の後ろに突っ込んだのは決して偶然じゃない。
明日死ぬかもしれない。それでは駄目か。「その時はその時」と言える心持ちは自由であろう。「明日のことは明日が心配します」とある人は言った。もう少し、手放していい。出来ることは決して多くはなく、少なくもない。哲学の効能のまとめ。構えが、覚悟が養われる。幸せになれる・・・というより、幸せに拘泥しなくなる。というより、幸せがなんのことかよくわからなくなる。いえ幸せですがなにか?。これは効能か?