他人を理解することについて

 誤解している人がいるかもしれないので一応。「わかる」とは頭の作業ではない。SNSの撮影のためだけに飲食物を注文し、食べ残していくという現象があったそうだ。「いいではないか」という。いいといえばいい。だが、勘違いに気づいていない。、錆びた感性の持ち主だと周囲に晒していることが「わからない」。とはいえ、どこまでいってもお互い様なのだが。
 「わかる」「わからない」は行為として現れる。断じて頭の作業ではない。


 勘違いついでに。ニュースキャスターが「今は多様性の時代、様々な価値観が尊重される時代です」と言っていた。尊重されるだけの価値になるまで磨かれ、そうして初めて認められるのであって、この過程を省いた受容はあり得ない。誰もが尊重する価値であればその時は、多様性の仮面は取り除かれているだろう。そこに残る個性を多様性と呼ぶ。「今も昔も、相応しい考えが尊重される時代」が正解だ。個性とは我ではない。個性は尊重しなくてよい、ただ人を、世界を尊重すれば事足りる。そこにある個性はどうやら、脈々と培われている底流、そこから沸きあがる普遍(誰もが尊重する価値)からの贈り物であるらしい。というのも個性、個別は普遍なくしてはそもそもがありえないのだから。


 ようやく本題。

 他人を理解するとは自分が「わかっている」ものを他人に見出すことだ。その感情、想いを抱いたことがある、表情、言動、その文脈が自身に既に知られているから理解できるのだ。知らないものがわかるわけがない。聞いたことも食べたこともないものは知らない。わからない。己を味わうことなくして他人を理解することはできない。己自身を知る、これが他人を理解するための前提条件だ。
 既に「わかった」それらであれば、他人の中にも見出せる。それを知っている、その確信があってはじめて「理解する」という言葉がその正当性を帯びる。自分がわかっていないことは、わかる由もない。
つまりは冒頭の話は本当のところ、「食べ残されたものって美味しかったのかしら」くらいしか実は理解できていない。


 以下はできること、できないことの比喩です。

「俺の苦悩がオマエにわかってたまるか」と言ってくる者がいたら、こう答えればよい。
「オマエの苦悩は知らないが、苦悩はよく知ってるぜ」
それでも隣に立つことはできるのだ。同じ視線で同じものをみることはできるのだ。いや、それは傲慢だ。
それでも、隣に立つことはできるのだ。
他人を理解できてたまるか。このことに果てはない。