煽動としての序章その1
「考えろ、そのためにまず感じろ」 哲学というと頭でごにょごにょ難しいことを考える、そんなイメージだろうか。ありていにいえば「頭でっかち」。 だが、それは大きな誤解だ。事実はまったく逆で、むしろ、ある種の感性が土台とし …
紡がれる意識の回帰するほうへ転がれ
「考えろ、そのためにまず感じろ」 哲学というと頭でごにょごにょ難しいことを考える、そんなイメージだろうか。ありていにいえば「頭でっかち」。 だが、それは大きな誤解だ。事実はまったく逆で、むしろ、ある種の感性が土台とし …
「まず黙れ、そして考えろ」 昨今は法律が錦の御旗らしい。やれコンプライアンスだやれ法令遵守だ。著名人が違法行為をしたとする。ネットやらメディアが喚きだす。「不謹慎だ!」・・・まずオマエが謹慎してくれ。 法律なり風潮な …
「疑え、そして信じろ」 …それでいいのか。何か食い足りない。吠える者、噛み付く者、足掻く者たちの絶対数が減ったように、疑うことを知らない輩が増えたように感じる。 素直であることと鵜呑みにすることは同じではない。とこ …
序章(三つの記事)をより理解してもらいたくて本記事を書いた。「考える」とはどういうことなのか。ロダンの彫刻「考える人」をイメージする人もいるかもしれない。ただそうなるのも作品に罪はなく、単に有名だったことによる。考える …
◆はじめに 昔、アルバイト先の店長に言われた忘れられない言葉がある。 あの頃の日々は生き地獄と呼ぶにふさわしく、よく生き延びたものだと思う。精神の闇、その際限のなさに圧倒されていた。「これがありえるのか?」その世界が …
精神病理について、哲学からのアプローチを試みたい。精神疾患は認識と深い関係があるからだ。臨床心理の療法の一つに認知療法というものがある。その手法には哲学の認識論という分野から取り入れた要素が多分に含まれている。認知療法 …
前の記事で「精神疾患の本当の問題はまったく別次元のところにある」と述べた。本当の問題は、認識の相対性に留まってしまうことだ。なぜそうなるかと言えば、自我への執着、これに尽きる。自我を手放すことこそ精神病の根治となる。 …
メッセージ「生きる意味」 ーもしあなたが生きる意味を求めているならば。 あらかじめ断っておく。人はおのれの人生の意味は問えない。たとえば仏陀、彼の人生はどうか。今生きる私たちに彼の言動が残されているのはな …
姉御の著書の中でヘーゲルに関する叙述箇所はどうしても読むリズムを断たれた。すんなりと読めない。腑に落ちない。スッキリしない。挙句「ヘーゲルは誰にでも読める」と仰る。「この程度のものが読めなくてどうするの」という挑発と、 …
処女作には作家のすべてが詰まっているという。姉御の『事象そのものへ』も例外ではない。処女作はそうであるはずなのだ。それまで熟成し発酵してきたものが時を得て一気に噴出、炸裂するのだから。彼女の核にもっとも近く触れることが …
取りこぼしがないか、そうあっては勿体ないという焦燥が視線を前へと連れ戻す。この澱みの正体は、整えられた鮮烈な意味の連なり、これが姉御の文体だ。小林秀雄の場合は趣きが違う。文に織り込まれた経験、生活、その強靭さを受容する …
雑誌 BRUTUS(2019/8/15号) の特集「ことば、の答え。」が目にとまったので読んでみた。 哲学と題されたページに、「○○とは?」という問いに数人が答えている文章があった。例えばこんな具合。 (紙面より抜 …
死ぬのが怖くなくなる。もっと言えば、死がよくわからなくなる。これは、効能か? 人生への「構え」が養われると姉御は言った。そう思う。 ある出来事の遅い遅くないをどう判断できるのか。後から振り返ってみた時に結果的に近道 …
誤解している人がいるかもしれないので一応。「わかる」とは頭の作業ではない。SNSの撮影のためだけに飲食物を注文し、食べ残していくという現象があったそうだ。「いいではないか」という。いいといえばいい。だが、勘違いに気づい …
「自分を愛する」という表現に出会うたびに、わかったような、それでいてなにもわからない、漠然としたまま終わってしまうことがある。この言葉について、かんがえてみたい。 『すべて自分で選択できる。というより、すでに自分が選択 …
事件が起こればすぐに「なぜ起こったのか」。この分析癖は、他人事で済ます欺瞞が見え隠れする。 無関心が蔓延している。昔、友人に「平和の反対ってなんだろう」と聞いたことがあった。少しばかりの沈思の後「無関心じゃない?」と …
ヘーゲルと小林秀雄から学んだこと 歴史を動かした者、歴史を透視した者、幾千もの先人たちの名が、それと知られることなく刻まれている。この先人たちと出会うこと、それがわたしに宿る歴史なのだろう。歴史を知るとはいうが、それは知 …