BRUTUS、おまえもか!

  雑誌 BRUTUS(2019/8/15号) の特集「ことば、の答え。」が目にとまったので読んでみた。

 哲学と題されたページに、「○○とは?」という問いに数人が答えている文章があった。例えばこんな具合。

ことばとは?自由とは?時間とは?粋とは?
組み合わせでしかないのにブンブン振り回されて…自由は嫌い。でも確固としたどうでもよさって好き。腕時計の重さ憧れています。でも、憧れているうちは到達できない境地のような気がします。
「でしかない」わけでもないし、そもそも組み合わせでもない。自由は好き。でも確固としたどうでもよさってたぶん嫌い。初めて聞きました。言わずもがなの事で「粋」を語るのか?

(紙面より抜粋。※二段目は私のコメントです)

 専門の領域に携わっている者なら、評価の場に臨むときの緊張感を己の領分で実感しているはずだ。緊張感がない、抱いていない。領域外であれば断る選択もあったはずだ。「ここ」で活動する資格があるという自負がないのであれば、安易に手を出してくれるな。もちろん、手を出してくれるのはかまわない。

 ケンドリック・ラマーの楽曲「u」の歌詞の翻訳が記載されていた。魂を込めた超訳とあるが、込めた魂はお粗末だったようで、失意や悲痛が、それらの源である彼の真摯さが微塵も伝わってこない。彼を庇った友人が銃で撃たれて死んだ、そんな過去を背負った者の言葉遣いがあのような類でありえようか。

  編集者にも責任はある。なあなあの関係が垣間見える。
 TVも新聞も出版社も教師もサラリーマンと化した。矜持を失ったのか。
 これも時代か。神様は「御客様」から「雇用主様」に様変わりしたらしい。

 自分が何をしているのかその自覚を問いたいのだ。
 好き勝手やっていい。何をしようが勝手だろう。だから問われるのだ。自由が。
 誰もが等しく同じ土俵の上に立っている。

誇らしい笑みがいい。

まとめると、こう。
「真剣に、遊べ」

私の回答を書いてみました。

ことばとは?自由とは?時間とは?粋とは?
魂をかたちづくるもの。行為として表現されるもの。永遠は時間でしょうか?語らずに語ること。


哲学の効能

 死ぬのが怖くなくなる。もっと言えば、死がよくわからなくなる。これは、効能か?

 人生への「構え」が養われると姉御は言った。そう思う。

 ある出来事の遅い遅くないをどう判断できるのか。後から振り返ってみた時に結果的に近道だった、とか、当時は最悪と感じていた出来事があったから今がある、とか、経験したことがあるだろう。何がどう転ぶかわからない。人間にとっては偶然でも、おおきな視座に立てばすべてが必然だ。バタフライ・エフェクト。事故に巻き込まれて死ぬことを誰も望んだりはしない。が、誰にでも起こりえる。死の訪れの遅い遅くないは決められない、が、確かに死はある、が、体験した者は一人もいない。体験がなくなること、それが死だ。未体験でしかありえないものの経験、というありえない形で還る。

 「死を恐れることができなくなる」ことについては、姉御の著書を一読されたし。あの論理への信頼、あの実存的了解、あれは立派に真っ当なキチガイのそれだ。


 遠足が楽しみで早起きした興奮気味の女の子に起こされた容姿端麗な母親が眠気が取れず少し胸をはだけた無防備な姿で陽気な新聞配達人と世間話をしている様子を自転車で振り返りながら見ていた三軒隣の青年が、二日前から会う約束をして友人宅へと訪れた男が側路に止めていた車の後ろに突っ込んだのは決して偶然じゃない。


 明日死ぬかもしれない。それでは駄目か。「その時はその時」と言える心持ちは自由であろう。「明日のことは明日が心配します」とある人は言った。もう少し、手放していい。出来ることは決して多くはなく、少なくもない。哲学の効能のまとめ。構えが、覚悟が養われる。幸せになれる・・・というより、幸せに拘泥しなくなる。というより、幸せがなんのことかよくわからなくなる。いえ幸せですがなにか?。これは効能か?

他人を理解することについて

 誤解している人がいるかもしれないので一応。「わかる」とは頭の作業ではない。SNSの撮影のためだけに飲食物を注文し、食べ残していくという現象があったそうだ。「いいではないか」という。いいといえばいい。だが、勘違いに気づいていない。、錆びた感性の持ち主だと周囲に晒していることが「わからない」。とはいえ、どこまでいってもお互い様なのだが。
 「わかる」「わからない」は行為として現れる。断じて頭の作業ではない。


 勘違いついでに。ニュースキャスターが「今は多様性の時代、様々な価値観が尊重される時代です」と言っていた。尊重されるだけの価値になるまで磨かれ、そうして初めて認められるのであって、この過程を省いた受容はあり得ない。誰もが尊重する価値であればその時は、多様性の仮面は取り除かれているだろう。そこに残る個性を多様性と呼ぶ。「今も昔も、相応しい考えが尊重される時代」が正解だ。個性とは我ではない。個性は尊重しなくてよい、ただ人を、世界を尊重すれば事足りる。そこにある個性はどうやら、脈々と培われている底流、そこから沸きあがる普遍(誰もが尊重する価値)からの贈り物であるらしい。というのも個性、個別は普遍なくしてはそもそもがありえないのだから。


 ようやく本題。

 他人を理解するとは自分が「わかっている」ものを他人に見出すことだ。その感情、想いを抱いたことがある、表情、言動、その文脈が自身に既に知られているから理解できるのだ。知らないものがわかるわけがない。聞いたことも食べたこともないものは知らない。わからない。己を味わうことなくして他人を理解することはできない。己自身を知る、これが他人を理解するための前提条件だ。
 既に「わかった」それらであれば、他人の中にも見出せる。それを知っている、その確信があってはじめて「理解する」という言葉がその正当性を帯びる。自分がわかっていないことは、わかる由もない。
つまりは冒頭の話は本当のところ、「食べ残されたものって美味しかったのかしら」くらいしか実は理解できていない。


 以下はできること、できないことの比喩です。

「俺の苦悩がオマエにわかってたまるか」と言ってくる者がいたら、こう答えればよい。
「オマエの苦悩は知らないが、苦悩はよく知ってるぜ」
それでも隣に立つことはできるのだ。同じ視線で同じものをみることはできるのだ。いや、それは傲慢だ。
それでも、隣に立つことはできるのだ。
他人を理解できてたまるか。このことに果てはない。

自分を愛することについて

 「自分を愛する」という表現に出会うたびに、わかったような、それでいてなにもわからない、漠然としたまま終わってしまうことがある。この言葉について、かんがえてみたい。

『すべて自分で選択できる。というより、すでに自分が選択している、その事実に気付くこと。
 言いかえると、誰のせいにも、状況のせいにもできない、そのことを受け容れること』

 メニャリータは「他人に自分を預ける人はずるい」と言う。「自分のことは自分で決められる」とも。


 日本語の事情があるのだろう。英語ではYesかNo、するかしないかであって、例えば「○○さんが困っていたけど、そんな空気ではなかったから何もしなかった」は「助けなかった」と同じだ。より正確には「助けないことを選んだ。助けないことに決めた」となる。日本語表現の曖昧さが、自分の選択、その有無をうやむやにする。覚悟を、決意を先延ばしにし、責任逃れにもつながる。

 個人的な話になるが、煽り運転をされることが非常に苦手だ。高速道路であろうと急ブレーキを踏むこともある・・・幼稚きわまりない。これがメニャリータの言う「他人に自分を預ける人」の典型例だ。怒りは当然、誰のものでもなく私のものだ。反応としての怒りはどうしようもないとしても、その後の行動は選べる。「あちらがこうさせた」と他人に責をなすりつけるのは、ずるいのだ。「あちらがこうさせた」とは蓋を開けてみれば、無責任を要求する、ある種の被害者意識で「今のアタイがこんなトンチキなのは○○のせい」と同じだ。
 みっともないのは煽る者ではなく自分であった。気付かされたのは昔のことでもない。


 このことを理解してから職場で周囲を見渡すと「やりたくてやっているわけではない」然とした人が少なくないことに気付いた。その会社に入ったから、その仕事を割り当てられている。それを選んだのだ。そのように収入を得ることを選んだ。誰が頼んだわけでもない。仮に頼まれたとして、引き受けたのは自分であろう。自分が選択したのだ。
 境遇を、漠然と何かのせいにしているような印象を受ける。一日の1/3をここで過ごすのだ。なぜ自分事としないのか。その状況を誰かの、何かのせいにするのはお門違いだ。向き合い方次第で豊かな時間とすることも可能なのだから。


 自分の選択を生きる、自分を生きようとすることが自分を愛することであるのは明らかだ。極論、生まれたから(仕方なく)生きているにせよ、生き方は選べる。不平不満はあるにせよ、誰のせいにもできない。そこから始めるしかない。自分の人生、その主導権を他人に明け渡すこと、それは自分を愛することから最も遠い。


 「あの人から言われて」「みんなそうしているから」「そういう空気だった」どれもこの国ではよく聞かれる。だからこそ、そのうえで、あなたが選択するのだ。「・・・に決めた」が欠けている。決めたからこそ覚悟が生まれる。堂々とした姿勢には必ず、覚悟が、決意が伴っている。人の行為には、その人の考えが宿っている。考えは行為として具体的に現れている。考えることなく、決断することなくそこに居ることも現れの一つであって、考えることを抽象的なものだとする勘違いはそろそろ止めていい頃だ。

 選択したとして、必ずしも明るい未来が待っているわけでもない。以前、食品偽装を告発した男性の、その後を追ったドキュメンタリー番組を見た。男性が営んでいた会社は取引先を次々と失って倒産し、妻と離別、娘さんは自宅マンションから飛び降り自殺を図り、九死の一生を得たが全身麻痺となり、父親である男性が介護する日常があった。驚いた。告発は簡単なことではないのだと、様々な圧力がこうもかかるのかと思い知った。この日常には未だ知られていない危うさがひそんでいて、牙を剥く時は個人などは一瞬で吹き飛ばされる。

 決して他人事ではない。食品偽装が現実に起きていることを明らかにしてくれたのは彼だ。この問題は、彼を何者とするのか、わたしたち一人一人の側にある。態度決定こそ、彼に対して出来ることでもある。
 無関心、他人事とするのは決断の先延ばしにしかならない。見て見ぬフリでは土壇場で慌てる羽目になる。既に覚悟があるときに堂々とした姿勢が可能なのであって、自分事として考えておく、態度を決めておくことで似た事態に遭遇しても構えることが出来る。無論、見ぬフリを決意したのであれば、それはそれで清々しい。なんであれ、誤りだったとして、誤りが誤りとなるためには選択が、決意が不可欠なのだ。

 
本題に戻ろう。「他人に委ねずに自分で決める」ことは「自分を愛する」ことであった。関連して、自己肯定について。
 「自分に自信をもてない」、そんなものはあってもなくてもよい。自信という字面が、自信のもつ語感が曲者なのだ。例えば「良い作品をつくりたい」のであれば、その過程で自分の意見が否定されたとしても、気にならないはずだ。なぜなら求めるものは「良い作品」であって、自分への評価ではないのだから。自信など不要である。誰もがそう、と確信しているとき、自信はその根拠をもつ。
 「他人に自分の評価を期待する」とは実のところ「他人に自分を預ける」ことであって、受け取った評価の確証作業に終わりはない。他人の評価を拠り所とすることが悪いと言っているわけではなく、そこに安心を求めることは構造としてできない、と言っているのだ。

 自分を肯定することにおいて、誰であろうと、親も兄妹も子供も友人も、頼りにできない。法律も慣習も、何もかも。クロマニヨンズはこのあたりの事情を「Feel So Great 無条件」と朗らかに歌った。けれども、この「無条件」の獲得には少なからぬ努力が必要で、努力とは自分の選択を生きる、一つ一つ選択を積み重ねていくことをいう。成功体験もあれば失敗体験もある。この繰り返しによって育まれる何かがある。わかりやすくいえば「お天道様に胸を脹れる」かどうか、「やることはやっている」と言えるかどうか、信頼に値する自分である、値しないときもふくめてその確信があるかどうか。ここまでくれば、無条件に辿りついている(もはや条件か?)。つまりは自分を確信している。


 「自分を愛する」ことは同時に、分相応を知ることでもある。自分の限界を認めることも含まれるのだ。「良い社会」を口にしながら、なかなか変わろうとしない他人を責めている自分に気付く。その現場は既に「良い社会」とは程遠い。覚悟をもって始めた行動だったはずが、不平不満と化した自分を見出す羽目になる。自分ができること、その範囲をしっかりと意識する必要があって、これを忘れると、いつのまにか誰かに責任をなすりつける転倒が生じやすい。曰く「こんなにも○○のために頑張っているのに・・・」。

 他人を変えることはできない。他人を変えようとすることは分を超えた試みであって、他人がどうであるかは関係ない。自分がどうありたいのか、その選択、その連続しかない。
 自分の選択を尊重できなければ他人の選択を尊重できるはずもない。裏返すと、自分の選択を尊重することは他人の選択を尊重することでもある。誰かからの叱責、その瞬間に変わることなぞできなかったように、それが自分へと入る瞬間、訪れた気付きのタイミングでしか変わることができなかったように、他人もまたそうなのだ。他人の選択を尊重するといっても、このことを納得する程度の話で、よって他人の選択を尊重することは案外、簡単ともいえる(実践は難しいです)。


 わたしたちができることは、その時その場所で、自分がどうありたいか、それを表現することであってそれ以上ではない。


 白状すると「愛」については語る資格はない。確かに掴んだ、そう言える確信はまだ訪れていない。どうやら、愛とはやはり、おのれを棄てることのようだ。「沖縄から貧困がなくならない本当の理由」の著者である樋口氏は、「自分を愛する」とは『人の関心に関心を示す』ことだと言った。対人に関してはそうなのだろう。
 「自分を愛する」とは『私の、この、世界を愛する』ことだとメニャリータは言った。その実践において、自分という語が消えること、そもそもが不要であることの不思議。
 『人の関心に関心を示す』ことは自分自身も対象となる。となれば、対象としての自分に関心を示す当の自分とは誰なのか。誰に対してもそのように臨む、誰でもない、それ(記事『認識と現実(後編)』への誘導です)。


2022/04/26 追記
 先月「嫌われる勇気」という本を読んだ。ハウツー本と思って敬遠していたのだが、読んでみて驚いた。なぜというに、アドラー心理学とこの記事の内容がほぼほぼ一致していたから。考えれば、誰もが同じ考え、普遍にいたる、そのことが実感できたのと同時にガックリした。
「すでにあるじゃん。しかも超ベストセラー・・・」
こうしてまた一つ、絶望的自慢を実感しました。とはいえ。結果的に、アドラー心理学を日常語で表現する試みになったとは思います。

関心について

 事件が起こればすぐに「なぜ起こったのか」。この分析癖は、他人事で済ます欺瞞が見え隠れする。


 無関心が蔓延している。昔、友人に「平和の反対ってなんだろう」と聞いたことがあった。少しばかりの沈思の後「無関心じゃない?」と答が返ってきた。Coccoは昔「知らないことは罪だ」と言っていた。おそらくは同じ意味・・・いや、彼女の場合は字義通りかもしれない。そしてそれは、やはり、ただしい。子供の残酷さは無知ゆえのものだ。大人も変わらない。
 あるTV番組で屋久島の女性ガイドが「人は知ることで優しくなれると信じている」と言っていた。そう思う。


ところで。
関心は個性そのものだ。より強く言えば宿命、使命だ。自分を生きるとはそういうことなのだ。
このことに関心を抱いてしまった気の毒な方、出番のお時間です。

歴史と自分について

ヘーゲルと小林秀雄から学んだこと

歴史を動かした者、歴史を透視した者、幾千もの先人たちの名が、それと知られることなく刻まれている。
この先人たちと出会うこと、それがわたしに宿る歴史なのだろう。歴史を知るとはいうが、それは知るというより、わたしに宿った幾千もの精神である。誰もがこのわたしという形式であり、自己という構造をもつ。そして歴史に、それと知られることなく刻まれる。

既に「何者」かであり、それと知るのは自分ではない。自分とは常に「何者」でもない。ただ自分であるよりほかにない。誰もがこの自分という形式であり、ここは自分の舞台、歴史の舞台、自己の舞台なのだ。

 これがヘーゲルの考える歴史だ。そして誰にとっても納得のいく考えなら、ヘーゲルのというよりは誰のものでもある考えであろう。想いを馳せる、迎える、出会う、そして知る、そういった心地なのだろう。ちなみにこちらは小林がおもう歴史である。

 だからどうした。